10 (陸奥)陽之介書簡 (山田市之允宛)
[補説]
差出人の「陽之介」とは、陸奥宗光であろうか。陸奥は和歌山藩士の生まれで、山田とは同年。元服前後の年頃に江戸に出てからは、変名を名乗ることが多く、慶応3年(1867)頃から「陸奥陽之助」になったようである。
軍制改革を進めていた和歌山藩が明治3年(1870)に導入した制度は、徴兵令の先駆けとして注目されたが、陸奥が長州の指導的存在である木戸孝允と接近する契機ともなった。当時、長州人では山田顕義や鳥尾小弥太(陸軍中将、子爵、枢密顧問官)が和歌山を訪れ、兵部大丞として近代軍創設を目指す山田はこの改革を高く評価していたという(佐々木雄一著『陸奥宗光』中公新書2509、平成30年)。本書簡は、そうした時期に山田と邂逅した陸奥が、胸襟を開いて話したいと山田を誘っているのであろうか。