11 大木喬任書簡 (山田顕義宛)
[補説]
大木喬任(1832~1899)は佐賀藩士で、佐賀勤王派として活躍した後、明治政府に招かれ、参与・外国事務局判事となる。明治2年東京府権知事を経て制度取調専務、初代文部卿、司法卿などを歴任。さらに枢密院議長、司法大臣、文部大臣を勤めたが、つねに公明正大・慎重堅実な態度であった。
「デネマルク」は、オランダ語表記のデンマーク(Danemark)であろう。書簡の内容は、デンマーク領事へ問合せる書類を机上に置いたままにしてしまったようで、心当たりを捜してほしいというものだが、詳しくはわからない。
「岸良」は、岸良兼養(きしらかねやす。1837~1883)のことで、明治4年(1871)司法省が設置されると判事となり、6年に司法大検事、10年に初代検事長に就任した。
山田顕義が「大輔」職に就任したのは司法大輔のみで、明治7年~12年までのこと。この時期大木喬任は司法卿在任中である。