[補説]
江藤新平(1834~1874)は明治2年11月より太政官中弁に任命された。「中弁」とは太政官事務局の職員のことだが、江藤は翌年には制度局御用掛となり、官制改革案などを立案して中央集権化を図った。明治3年4月頃、兵部省内では山田顕義を中心として軍制・軍旗・軍服などの考案を進めていた。本書簡は明治3年4月に江藤新平へ山田顕義が軍服の見本を渡した際の返答と推測される。(参考文献:刑部芳則『洋服・散髪・脱刀―服制の明治維新―』講談社選書メチエ、平成22年)