4 山田顕義書簡 (長三洲宛)
[補説]
長三洲(ちょうさんしゅう。1833~1895)は、豊後国日田郡馬原村(大分県日田市)の儒家長梅外(ちょうばいがい。1810~1885)の三男。広瀬淡窓塾に入門し神童と称された。幕末期には勤王の志士と交流し、長州の奇兵隊に入り奔走した。薩長同盟の立役者の一人といわれ、戊辰戦争では越後口征討軍の参謀として活躍。明治維新後は木戸孝允に重用され、大学少丞、文部大丞、文部省学務局長を歴任。明治天皇の侍読・習字御用掛を務めた。書家・漢詩人として名声高く、漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉として明治前期の教育界の双璧をなしたといわれる。山田顕義とは、長州藩時代から交流があり、戊辰戦争を潜り抜け、明治政府の官僚となって以降は、同好の士として親交を深めていった。