2 山田顕義書簡巻 (緒方中典医宛)
[補説]
長州藩主毛利敬親は明治4年3月中旬頃から病に罹り、山田顕義はこれを憂慮し、蘭学医緒方洪庵の次男緒方惟準(ただよし。1843~1909)に連絡し、緒方が担当していた大坂病院で雇い入れている蘭医をしばらく貸して欲しいという内容。書簡に出てくる「ホートイン」は、オランダ人お雇い外国人で陸軍軍医のアントニウス・ボードウィン(1820~1885)のことで、大村益次郎が襲撃を受けて負傷した際に手術を施した医者でもある。毛利敬親の病状が悪化した際に出された書簡と考えられるので、明治4年に作成されたものであろう。なお、顕義の願いもむなしく、本書簡の翌日である明治4年3月28日、毛利敬親は山口で死去した。