[補説]

伊藤博文は明治6年(1873)10月~18年(1885)12月まで参議の役職にあった。

本書簡は、伊藤博文関係文書研究会編『伊藤博文関係文書八』の「三九六 山田顕義書簡」中の17番(157頁)に収載されている。この書簡の年代が明治15年(1882)と推定されており、山田は伊藤博文に対して商法編纂の速やかな決定を願い出ている。

文中の「隺田」は、太政官参事院議官鶴田皓(1835~1888)のことで、商法の他、刑法・治罪法の起草にあたった。「周布」は周布公平(1851~1921)のことで、幕末に長州藩で活躍した周布政之助(1823~1864)の嫡男である。この当時は太政官参事院議官補として法制部に出仕していた。