日本大学法学部 令和6年度 学生研究室案内 デジタルパンフレット
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16沼研究会は,昭和24年4月に開設した司法試験を目的とする研究会で,通称「沼研」と呼ばれております。沼研ができたのは,当時沼義雄先生の民法ゼミを聴講していた学生たちが,先生に特別にお願いして司法試験の指導をしていただいたのが始まりです。沼義雄先生は,東京大学を卒業後判事に任官し,刑事事件を担当し,わが国初めての陪審裁判を手がけ,大審院部長も務められました。沼先生の学位論文を審査された東大教授我妻栄博士は,「当時私どもは,東京大学の法学部研究室で,末弘厳太郎先生に指導されながら,熱心に判例研究会をやっていたから,沼義雄判事の名もしばしば耳にした。古風の面影とでもいうような,一種の風格のある,そしてすこぶる篤学の人として,われわれの間に知られたのであった。」と語っておられます。他方,沼先生は,判事時代から永く日本大学で民法を講義され,昭和21年からは専任教授となられましたが,昭和41年にご逝去されました。先生は,いつも溢れるばかりの温をもって夏冬の休みなく学生の指導に当たり,沼研で先生のご指導を受け,法曹界で活躍している卒業生の数は枚挙にいとまがありません。今日,日本大学には沼先生はおられませんが,先生の教え子たちが一丸となって,先生に学恩に報いるべく,沼研から一人でも多く司法試験合格者を出すために尽力しております。昭和43,4年頃まで,日大法学部には特研,沼研,桜門研が司法試験受験のための研究室として存在し,それぞれが競って合格達成に向けて勉強していた。これが今日の特別研究会,沼研究会,桜門研究会の前身となるといっても過言ではない。当時特別研究室は,特研という通称で呼ばれ,旧6号館全館を使用し,入室試験の合格者が約10の部屋に分散して入り,1部屋10数名に各机が割り当てられて勉強した。大学2年生から卒業生まで同じ部屋で朝9時から夜10時まで勉強し,昼食時,夕食時各1時間の休憩時間には大声で論議するという習慣がついていた。又研究室の1階の教室では週1回答案練習会をやったり,グループごとに時間を決め,演習問題を徹底的に論議した。こうすることによって,自分の実力がどの程度のとこにあるか段々と分かってきて,あいつが合格したのだから,俺だって合格してもおかしくないと思うようになってくるのであった。私は昭和43年に合格したが,その年の日大合格者は23名にものぼった。研究室からは1部屋から少なくとも1名又は2名が合格したのであった。合格した先輩が後輩の受験指導に当たるという長年の伝統があったので,この伝統が後輩に引き継がれいつかは自分が合格するのが当たりまえという雰囲気が生まれていた。昭和43年までの10年間には実に日大だけで172名の合格者を出し,その大半が特研出身者であった。ところが,昭和43年にいわゆる日大闘争がぼっ発し,研究室も閉鎖状態になり,研究生はバラバラとなり合格者も減少し,昭和44年からの10年間の日大合格者は82名,その後の10年間は38名と減少するに至った。寂しい限りである。そこで今日,本来あるべき日大の姿を取り戻そうと,特別研究会が正式にスタートしたのである。自分も頑張れば必ず合格できるのだという信念をもって,是非諸君も合格していただきたい。(文責 弁護士 齊藤 英彦)(文責 弁護士 堀川 日出輝)日本大学法学部における法曹養成の歴史日本大学法学部における法曹養成は,司法試験のための公的・私的な研究会が,重要な役割を果たしてきました。司法試験合格を目指す学生は研究会に所属し,切磋琢磨しながら合格してきたという歴史があります。現在では研究会は直接の受験指導は行っていません。しかし,研究会出身の法曹の皆さんは,日本大学法曹会での活動や,司法科研究室での指導を通じて,研究室生の学習を支援しています。また,司法科研究室の各部屋には,沼研究会・特別研究会・桜門研究会の名称が現在でも付けられています。仲間と共に学び,先輩が後輩を指導するという伝統は,研究室の形態が変わった現代においても,脈々と引き継がれています。沼 研究会特別研究会

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